介護の実情
母は5回目の手術の後、左半身がほとんど動かなくなりました。左利きなので、かなり不便です。お箸は持てません。歩くのはひとりではとても難しい状態。字も書けませんので、もう母の字を見ることはできません。母はとても字が上手な人です。
このような状態ですので、生活では誰かが必ず一緒にいる状況を作りました。
父には会社を辞めてもらい、24時間一緒にいるのは父、私は仕事以外はお手伝いするような状態。夜中のトイレが2時間おきくらいで、7-8割は私が起きて連れて行きました。
私の立場は、
働きながら介護をして、夜はまとまった睡眠をほぼ取れない生活。お風呂は私が担当しました。
父の立場は、
母と常に一緒に居り、食事を全て用意。食材の買い出しや、通院の運転は父の担当。
どちらもそれぞれで負担がありました。
ここで悪い方向へ行ってしまった原因は、父の歪んだ性格と、アルコール依存症だと思っています。
父はずっと会社勤めをしており、会社役員もやっておりました。いわゆるエリート。
しかしながら家に帰ると、思い通りにならないことに対して怒鳴り散らし、家族を言いなりにさせるような人間でした。
私が幼い頃からトラウマになっているのは、母と父が喧嘩をし、父が激昂、家にある食器を窓に投げつけ家中の窓が壊されたことです。あの時の音や目の前で起きた景色は忘れられません。父は母を殴り、母は泣いていました。あれ以来、父親はカッとなったら手を出すし、家族でも殺しかねないなという人物像になりました。
そのような性格の父。介護が始まると朝からアルコールを摂取し、夜中も目が覚めればウィスキーを摂取。私から見たら異常な姿でした。父が倒れたらそれはそれでいいと思っていました。母の介護さえしてくれれば。
母はトイレが近くなり、ほかに自分でやりたいこともなかなかできなくなり、全てを私や父に言う生活。◯◯取って、あれ食べたい、トイレ、......正直しんどかったです。文句は言いながらも、でも私は母の残された時間を考え、何でもやってあげよう、と自分に言い聞かせていました。
父はそうではなかった。夜起こされると、「俺が死んじゃうよ〜はぁ」とか、「やめろと言ったらやめろ!」とか、常に怒鳴って母に嫌味を言っていました。目の前で見ていて苦しかった。
病気の母に対して、俺が死んじゃうよ、とかよく言えたもんだなと。
父のストレスの吐口は次第に母へ絞られて行くことになりました。
#介護 #アルコール依存症 #脳腫瘍