介護とアル中と私の人生

愛する母の介護とその他もろもろ。

愛があるうちに。その2

父の介護放棄と暴力、恐喝が原因で、

車椅子の母を連れて区役所へ泣きながら行きました。

母の傷だらけの姿、父の怒鳴り声で人生で精神的に一番辛かった日でした。

 

救われたのは、区役所の人は、本当に優しい。いや仕事だから当たり前かもしれないですが。

泣いている私の話を一生懸命聞いてくれて、違う部署にいる方も飛んできてくれて。人はやはり人に助けられて生きていられるんだなぁと実感して感動した日でした。

 

介護って、家族だったら当たり前にできると思っていました。仕事だって制限するし、私は母のために転職もしました。一緒にいる時間は幸せに過ごしてほしい。母にはとびきり優しくしよう。と決めていました。

..でも現実は全然違う。介護ってことはある程度身体が不自由なので、本当に全てを自分がやらなければならないのです。

 

家事はもちろん、着替え、トイレ、喉が乾いたと言われれば飲み物を取りに行き、爪を切手と言われれば爪を切り、眩しいと言われればカーテンを閉め、時計の位置をずらしてと言われればずらし...やることって24時間無限なのです。

身体が自由に動く私たちは、無意識のうちに自分でそれだけのことを自由にやっているんだなと考えると、母の不自由さは本人にしかわからない辛さだと思います。

...だけど、介護する側も辛いもんは辛い。ただそれだけ。寝られずしんどい。それに働かないとお金もない。ほとんど寝ない日々が続く。何度もいう、辛いのです。

 

こういった日常が続くと、愛情ってすり減るんです。育ててもらっておいてあり得ないことを言っているのはわかっていますが、愛情って、本当にあっけなく失われる。

 

介護疲れで事件が起きることがありますが、少し理解できるくらいには疲労が溜まっていました。

介護で限界の方、絶対に公共の施設やサービスを利用したほうがいい。自分が我慢していると、後悔することになります。

 

つづく

「愛があるうちに」

私がハッとした言葉があるのですが、

「愛があるうちに専門家に任せる」

これはTwitterかなんかで見かけたのですが、読んだ時にハッとしました。

 

私は母を愛しています。宇宙一愛しています。毎日言葉で直接、愛してるよって伝えています。母のためだったら何だってするし、できると思ってました。

だけど、24時間介護をやってみると、これは大変なことだと実感したわけです。色々なことを要求されたり、寝られない日が続くので、イライラしてしまうのです。私の場合、夜に寝られないのが一番つらいです。時には母に当たってしまうこともありました。自分で自分が嫌になります。

 

それは父も同じでした。彼の場合、アルコールとDVに走ってしまったわけです(社会的にも人としてもアウト、次やったら彼は逮捕されます)。

 

こういった経緯があり、父から逃げるように、区の介護サービスをお願いすることになったのです。愛が、あるうちに。

 

 

#介護 #アルコール依存症 #脳腫瘍

(つづく)

介護の実情

母は5回目の手術の後、左半身がほとんど動かなくなりました。左利きなので、かなり不便です。お箸は持てません。歩くのはひとりではとても難しい状態。字も書けませんので、もう母の字を見ることはできません。母はとても字が上手な人です。

 

このような状態ですので、生活では誰かが必ず一緒にいる状況を作りました。

父には会社を辞めてもらい、24時間一緒にいるのは父、私は仕事以外はお手伝いするような状態。夜中のトイレが2時間おきくらいで、7-8割は私が起きて連れて行きました。

 

私の立場は、

働きながら介護をして、夜はまとまった睡眠をほぼ取れない生活。お風呂は私が担当しました。

父の立場は、

母と常に一緒に居り、食事を全て用意。食材の買い出しや、通院の運転は父の担当。

 

どちらもそれぞれで負担がありました。

 

ここで悪い方向へ行ってしまった原因は、父の歪んだ性格と、アルコール依存症だと思っています。

父はずっと会社勤めをしており、会社役員もやっておりました。いわゆるエリート。

しかしながら家に帰ると、思い通りにならないことに対して怒鳴り散らし、家族を言いなりにさせるような人間でした。

私が幼い頃からトラウマになっているのは、母と父が喧嘩をし、父が激昂、家にある食器を窓に投げつけ家中の窓が壊されたことです。あの時の音や目の前で起きた景色は忘れられません。父は母を殴り、母は泣いていました。あれ以来、父親はカッとなったら手を出すし、家族でも殺しかねないなという人物像になりました。

 

そのような性格の父。介護が始まると朝からアルコールを摂取し、夜中も目が覚めればウィスキーを摂取。私から見たら異常な姿でした。父が倒れたらそれはそれでいいと思っていました。母の介護さえしてくれれば。

 

母はトイレが近くなり、ほかに自分でやりたいこともなかなかできなくなり、全てを私や父に言う生活。◯◯取って、あれ食べたい、トイレ、......正直しんどかったです。文句は言いながらも、でも私は母の残された時間を考え、何でもやってあげよう、と自分に言い聞かせていました。

 

父はそうではなかった。夜起こされると、「俺が死んじゃうよ〜はぁ」とか、「やめろと言ったらやめろ!」とか、常に怒鳴って母に嫌味を言っていました。目の前で見ていて苦しかった。

 

病気の母に対して、俺が死んじゃうよ、とかよく言えたもんだなと。

 

父のストレスの吐口は次第に母へ絞られて行くことになりました。

 

#介護 #アルコール依存症 #脳腫瘍

 

アル中はだれか

アル中なのは父親です。

母の介護が始まり仕事を退職してから、朝6時からからウィスキー。夜中も目が覚めればウィスキー。チェイサーにビール。そんな感じの生活がしばらく続いていました。

介護とアルコール、両立することは無理ですし、とても危険です。

 

病の母への怒号、暴力が始まったのはそう遠い話ではありませんでした。

 

#介護 #アルコール依存症 

脳腫瘍の発覚と治療

約2年前、母が自分の様子や言葉が出ないことをおかしいと感じ、自分で救急車を呼んで病院へ行ってくれました。今思えば、言葉が出にくいって、サインを出していたのに、気づいてあげられなかった...本当に私は親不孝。

すぐに入院、手術が決まり、腫瘍を検査したところ神経膠腫、グレード4の膠芽腫とわかりました。

 

2回の手術のあと、ワクチンでの治療を選択してその後1年くらいは調子が良く過ごしました。

 

そして最初の手術から1年経った頃、再発。

手術をしたけど、その後に傷口が空いてしまい、傷口の再手術(ほんとやめてくれ...)。

再発の手術の際、傷口がしっかり縫われていなかったために母は頭蓋骨の一部を失うことに。

 

手術をするたびに弱って行く母を見ていて切なかったです。死に近づいているのかと思うと涙が出て何もできません。

母は私の全てなんです

介護が始まった理由

母の脳腫瘍が発覚したからです。

何度も手術して、取っても取ってもまた広がって。いろんな薬も試しているけれど、じわじわと広がっています。

脳腫瘍は、母の自由と日常を確実に蝕んでいく。。。

 

母の自由が利かなくなって、援助することがゆっくりだけどだんだん増え、私の仕事も減らすことになって、ああこれが介護か、と気がつきました。

 

#介護 #脳腫瘍 #家族